[259] ★ 【「突破者」宮崎学が絶対に譲らなかった矜持と生涯 具体的な差別と具体的に戦った作家の「遺言」】→ https://news.yahoo.co.jp/articles/fa2ebf2d9ef172a993baad56473648cc8da8a751
名前:『ナニワ金融道場』管理運営委員会
(22/05/15-13:08)
1984年に江崎グリコ社長が何者かに誘拐されたことをきっかけに、食品会社を標的とする脅迫事件が相次いだ。いわゆるグリコ・森永事件である。容疑者はその風貌から「キツネ目の男」と呼ばれた。この「キツネ目の男」ではないかと疑われていたのが、宮崎学氏である。 宮崎氏は自らの半生を振り返った『突破者』(南風社、のちに幻冬舎アウトロー文庫、新潮文庫)で作家デビューすると、一躍論壇の寵児となり、次々に作品を世に放ってきた。体調を崩してからも創作意欲は衰えなかったが、残念ながら昨年刊行した『突破者の遺言』(K&Kプレス)が遺作となった。 《 忘れられない一節 》 宮崎学氏ほど差別を憎み、差別と戦った人はいない。氏の訃報に接し、その思いを改めて強くしている。 忘れられない一節がある。宮崎氏がデビュー作『突破者』につづった、上田という人物との思い出だ。 上田は宮崎氏の実家・寺村組の行儀見習いの住み込み若衆で、当時はまだ中学生だった。しかし、山口組との抗争で足をドスで刺されながらも必死に組の代紋を守り抜き、古参の組員から期待されるような人物だった。 上田は被差別部落出身で、子どものころは解放運動に加わり、部落解放同盟の少年闘志として名を馳せていたらしい。しかしその後、運動から身を引き、ヤクザの世界に転じた。 そのころ宮崎氏はマルクスにかぶれており、上田のような優秀な人間は運動に挺身すべきだと考えていた。そこで、余計な差し出口だと承知しつつも、解放運動に戻るべきではないかと問いかけた。 上田はしばらくうつむいたあと、こう応じた。 「学さん、わし、ヤクザになって初めて自分が解放されたと思たんですわ。この気持ち、わかってくれます?」 「運動のなかにいるときには差別はない。そやけど、学校や世間に戻ったら、差別されよる。わしがなんぼ鉢巻きして喚いたって、いっこも変わらへん」 「そら、世の中そうは簡単には変わらんぞ」 「いや、学さん、世の中は変わらんかもしらんけど、世間は変わる。わしがヤクザになった途端、だれも差別しよらへん。表だっては、だれもしよらん」 「いくらタテマエを叫んでも、差別なんかなくならへん。とすれば、そのなかでどう生きるか、どう世間と付き合うかしか自分には考えられへん。学さん、わしはもう、自分のやっていることが人のためにもなるという世界で動くのはやめたんですわ。これからは、おのれのためだけに動く。たとえ鬼だ蛇だといわれても、わしはわしの道を極める。それで自分が救われるかどうか、賭けてみますわ」 そして、「運動をやめたんも、こんなこというんも、わしが弱いからですわ」と付け加え、自嘲気味に笑ったという。 《 具体的な差別と具体的に戦う 》 私たちは上田の言葉が正しいことを知っている。日本には出自や性別などをめぐる差別が根強く残っており、街頭ではしばしばヘイトスピーチをまき散らすデモが行われ、ネット上では差別的言説が頻繁に飛び交っている。 しかし、この手の人間は上田のようなヤクザ相手に差別的な言動をとることはない。少なくとも、表立ってはしない。怖くてできないのである。差別主義者とはそういう卑怯な存在である。 上田の言葉はその後の宮崎氏の生き方や考え方に影響を与えたと思う。宮崎氏は部落解放運動について論じた『近代の奈落』(解放出版社、のちに幻冬舎文庫)という著作で、この本を書く過程で自分の父親が被差別部落出身だったことを知ったと明らかにした上で、おそらく周囲の人たちも昔からそのことはわかっていたはずだと記している。 しかし、宮崎氏は出自を理由に差別を受けた経験がないという。なぜか。長年にわたる部落解放運動の積み重ねが、宮崎氏に対する差別を防御してくれたのか。そうではあるまい。 宮崎氏が差別されなかった理由は明快である。父親がヤクザだったからである。ヤクザの組長の息子を差別すれば血を見るのは間違いないということを、みんなわかっていたからである。 もちろん心の中や陰で宮崎氏たちを差別していた人間はいただろう。しかし、少なくとも実際に差別されることはなかった。物理的な力を身につけることによって、目の前の差別を防いだのである。 宮崎氏は、差別は未来永劫なくすことはできないと断言する。差別は人間の業である。人間が存在する限り、差別はなくならない。しかし、いま・ここで行為としての差別をさせないことはできる。私たちにできるのはそこまでだ。具体的な差別と具体的に戦い、目の前にある差別を潰す。そのなかで差別を許さない力をつけていく。差別をなくす運動とはこれ以外のものではありえない。これが宮崎氏の考えだった。ここから上田の影響を読み取ることは難しくないだろう。 《 突破者の遺言 》 宮崎氏は差別と具体的に戦うことにこだわり、人権や平等といった抽象概念からは距離をとっていた。普遍的人権を押し立てれば、現実の社会に抽象的な無差別をそのまま押しつけることになるからだ。それはおそろしく非現実的な話であり、結果として「差別のない明るい社会」ではなく「差別がないことになっている暗い社会」を招くだけだ。宮崎氏は『近代の奈落』にそう記している。 しかし、人権や平等のためでないとすれば、何のために差別と戦うか。そのモチベーションは何なのか。宮崎氏は絶筆となった『突破者の遺言』で、差別との戦いについて率直につづっている。 「差別反対」は私も同じである。ただやり方が違うだけだ。私の場合、差別に反対するとは、私の目の前で差別している人間をぶん殴ることだった。正しいからそうするのではない。単に私が気に入らないからそうするだけだ。 なぜ気に入らないか。差別は弱い者いじめだからだ。弱い者ほど弱い者をいじめる。誰かを差別するということは「私は弱い者いじめをする弱い者です」と宣言するに等しい。だが、私はそういう連中に「恥を知れ」などとは言わない。いきなりぶん殴るだけだ。 だから私は自分のことを善人だなどとは更々思っていない。私は弱い者をいじめる弱い者をいじめるだけだ。「弱い者いじめいじめ」は悪かもしれないが、「弱い者いじめ」は極悪であるという確信だけは持っている。 私の結論は単純だ。〈差別との戦い〉は、永遠のもぐら叩きである。差別問題に根治療法はない。だから永遠の対処療法を続けるしかない。それゆえ差別を根治した気になって、「差別との戦いに勝利した」と祝ってはならない。そんなことはそもそもできやしないのだ。 差別との戦いに最終的な勝利はない。人間は差別との戦いに勝利するためではなく、敗北しないために永遠に戦い続けるしかない。それが差別と戦うということである。 宮崎氏は生涯、この生き方を貫いた。まさに「突破者」と呼ぶにふさわしい一生だったと思う。 私たち常人には宮崎氏の生き方を真似ることは難しいが、ヘイトスピーチが横行している今日において、突破者から学ぶべきものはたくさんあるはずだ。( ヤフー ニュースより転載 )
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